あの日、東大に落ちた私へ②誰もいない教室で


「私、東大を受ける」

夏休み前日、唐突にそう言い出した娘に、母親は特段大きなリアクションをしなかった。

「そうなの?頑張ってね」

喜ぶでもなく、怒るでもない。淡々と返事が返ってきた。
「何言ってんの?今の成績じゃ無理でしょ」って。
怒られるとか、茶化されるのかと怯えてた私は拍子抜けした。

私の一世一代の宣言は、ものの数十秒で終了。

「そういうことだから」


逆に私が気恥ずかしくなって、自分の部屋への階段を駆け上がる。
変に反対されなくて良かった。
これで堂々と、明日から学校へ行ける。
そう、明日から夏休みが始まるのだ。

家では漫画の誘惑があることが分かってたから、私は学校で勉強をするつもりだった。



翌日。
受験の天王山と言われる高校三年生の夏休み初日。
私は高校生活で初めて、自習室を訪れた。

自習室はうるさかった。
ソフトテニス部と、ハンドボール部の集団がガラケー片手にきゃっきゃと楽しそうに雑談している。
最前列には、学年トップの子たちが数人、黙々と勉強を進めていた。

この環境でも集中できるのが本物なのかもしれない。
と思って彼女たちの真似をして席に着いたが、座るなり絡まれる。


「サナちゃんじゃん!珍しい!勉強するの?」
「珍しいとは失礼な。するよ」
「第一志望どこ?」
「東大」


“鳩が豆鉄砲くらった“のお手本のような顔が並んで、空気が止まる。


「え!そうなの?え〜!頑張って!!」
「すごいね〜」


意外にも、学年下から1桁の私が東大を目指すと宣言しても、誰も冗談だと思わなかった。
友人たちに否定されなかったのは幸いだが、このまま絡み続けられては勉強どころではない。
人が多くて、ざわついた雰囲気にも、どうにも馴染めなかった。

静かな場所を探して彷徨ってると、自分の教室に辿り着いた。


誰もいない。


昨日までの喧騒が嘘のように、静寂とスンとした雰囲気がそこにあった。


自分の席に腰を下ろす。
落ち着いた。


ここで勉強しよう。
そう決めた。


だた、教室にはマイナス面もあった。
自習室にはクーラーがあるが、教室にはない。
(だからみんな自習室にいたんだけど)

紙パックのリプトンのミルクティーはすぐにぬるくなった。
下敷きで仰ぎながら参考書を開く。
春からロッカーに置きっぱなしにしていた、ほぼ新品の青チャートの、1ページ目からスタートだ。
残り半年。この厚さ分、私は追いつけるのだろうか。

最初こそ暑さが気になったが、集中すればすぐに暑さは気にならなくなった。
私の席は廊下側の後ろから2番目。
廊下に面した小窓から、稀に夏の風が入ってくる。



1週間もたったころ、担任に見つかった。

「わ!びっくりした。ここで何してるの?!」
「勉強です」


うちの担任・牛込先生は規則やルールに厳格なことで有名だった。
夏休みに教室を使っていいとは言われていない。
追い出されるかもしれない・・・。


「自習室は?」


七三に分けた髪と、メガネが光る。


「人が多くて集中できなくて・・・」
「暑くない?」
「暑くてもここがいいです」

自習室に行けと言われませんように。
早く話を切り上げたくて、参考書に目を移す。
牛込の視線を感じる。
参考書をシャープペンで追うが、もちろん頭に入ってこない。


「ふーん、そうか。暑いから。無理するなよ」


良かった。
一つ息を吐いてシャープペンを握り直す。
廊下の窓から、牛込が遠ざかる足音と、セミの声が聞こえた。

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改めて当時を思い返すと、東大を受けると言ったことに、親も、友達も、誰も驚かなったんですよね。
当時は東大どころか、そこそこの私立に受かるのも難しい成績だったので、冷笑されてもおかしくなかったのに。
ありがたい限りです。

頑張ろうとしてる人を笑わないという点でも、品が良い高校だったなと思います。
私立とかじゃなくて、普通の公立だったんですねどね。

あと、ちょっと想定外だったのは、私は和を尊ぶタイプだと自認していたのですが、文章にすると、授業中に漫画読むわ、勝手に教室使うわ、結構やりたい放題でしたね。
おかしいなぁ。

この牛込先生は、今後も登場するので名前を付けました。(もちろん仮名)
お楽しみに。

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①始まりは魔女の家

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