「私、東大を受ける」
夏休み前日、唐突にそう言い出した娘に、母親は特段大きなリアクションをしなかった。
「そうなの?頑張ってね」
喜ぶでもなく、怒るでもない。淡々と返事が返ってきた。
「何言ってんの?今の成績じゃ無理でしょ」って。
怒られるとか、茶化されるのかと怯えてた私は拍子抜けした。
私の一世一代の宣言は、ものの数十秒で終了。
「そういうことだから」
逆に私が気恥ずかしくなって、自分の部屋への階段を駆け上がる。
変に反対されなくて良かった。
これで堂々と、明日から学校へ行ける。
そう、明日から夏休みが始まるのだ。
家では漫画の誘惑があることが分かってたから、私は学校で勉強をするつもりだった。
翌日。
受験の天王山と言われる高校三年生の夏休み初日。
私は高校生活で初めて、自習室を訪れた。
自習室はうるさかった。
ソフトテニス部と、ハンドボール部の集団がガラケー片手にきゃっきゃと楽しそうに雑談している。
最前列には、学年トップの子たちが数人、黙々と勉強を進めていた。
この環境でも集中できるのが本物なのかもしれない。
と思って彼女たちの真似をして席に着いたが、座るなり絡まれる。
「サナちゃんじゃん!珍しい!勉強するの?」
「珍しいとは失礼な。するよ」
「第一志望どこ?」
「東大」
“鳩が豆鉄砲くらった“のお手本のような顔が並んで、空気が止まる。
「え!そうなの?え〜!頑張って!!」
「すごいね〜」
意外にも、学年下から1桁の私が東大を目指すと宣言しても、誰も冗談だと思わなかった。
友人たちに否定されなかったのは幸いだが、このまま絡み続けられては勉強どころではない。
人が多くて、ざわついた雰囲気にも、どうにも馴染めなかった。
静かな場所を探して彷徨ってると、自分の教室に辿り着いた。
誰もいない。
昨日までの喧騒が嘘のように、静寂とスンとした雰囲気がそこにあった。
自分の席に腰を下ろす。
落ち着いた。
ここで勉強しよう。
そう決めた。
だた、教室にはマイナス面もあった。
自習室にはクーラーがあるが、教室にはない。
(だからみんな自習室にいたんだけど)
紙パックのリプトンのミルクティーはすぐにぬるくなった。
下敷きで仰ぎながら参考書を開く。
春からロッカーに置きっぱなしにしていた、ほぼ新品の青チャートの、1ページ目からスタートだ。
残り半年。この厚さ分、私は追いつけるのだろうか。
最初こそ暑さが気になったが、集中すればすぐに暑さは気にならなくなった。
私の席は廊下側の後ろから2番目。
廊下に面した小窓から、稀に夏の風が入ってくる。
1週間もたったころ、担任に見つかった。
「わ!びっくりした。ここで何してるの?!」
「勉強です」
うちの担任・牛込先生は規則やルールに厳格なことで有名だった。
夏休みに教室を使っていいとは言われていない。
追い出されるかもしれない・・・。
「自習室は?」
七三に分けた髪と、メガネが光る。
「人が多くて集中できなくて・・・」
「暑くない?」
「暑くてもここがいいです」
自習室に行けと言われませんように。
早く話を切り上げたくて、参考書に目を移す。
牛込の視線を感じる。
参考書をシャープペンで追うが、もちろん頭に入ってこない。
「ふーん、そうか。暑いから。無理するなよ」
良かった。
一つ息を吐いてシャープペンを握り直す。
廊下の窓から、牛込が遠ざかる足音と、セミの声が聞こえた。
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改めて当時を思い返すと、東大を受けると言ったことに、親も、友達も、誰も驚かなったんですよね。
当時は東大どころか、そこそこの私立に受かるのも難しい成績だったので、冷笑されてもおかしくなかったのに。
ありがたい限りです。
頑張ろうとしてる人を笑わないという点でも、品が良い高校だったなと思います。
私立とかじゃなくて、普通の公立だったんですねどね。
あと、ちょっと想定外だったのは、私は和を尊ぶタイプだと自認していたのですが、文章にすると、授業中に漫画読むわ、勝手に教室使うわ、結構やりたい放題でしたね。
おかしいなぁ。
この牛込先生は、今後も登場するので名前を付けました。(もちろん仮名)
お楽しみに。
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